どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、「安藤信正 」についてご紹介していきます。
安藤信正 の簡単な略歴は以下ですね
安藤信正 のプロフィール
- 1820年:誕生
- 1871年:死去(52歳)
この記事でわかる事としては、「安藤信正 」の縁の物事、周辺情報についてまとめています。
今回は、「安藤信正とは何者か?坂下門外の変のきっかけになった公武合体とはどんなものだったのか」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
関連するおすすめ記事
安藤信正とは何者だったのか?
安藤信正は、江戸時代後期の大名ですね。
陸奥国磐城平藩5代藩主として活躍されていた人物です。
幕末に若年寄、次いで老中を務めています。
安藤信正が襲われた坂下門外の変
1862年に、水戸浪士らが江戸城坂下門外で,登城途中だった安藤信正を襲撃したのが坂下門外の変という事件です。
実は、1860年3月には、大老の井伊直弼が殺害され。そののちも幕閣の中心に立ったこの阿藤信正でした。
安藤信正は,尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために,首席老中久世広周(ひろちか)と共に公武合体政策を推し進めていきます。
その代表的なものとして、孝明天皇になんと圧力をかけて,同年10月,皇妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁の勅許を得たことであった。
そのことへの批判が、この坂下門外の変に繋がったと考えられています。
安藤信正の公武合体という思想
安藤信正は、安政の大獄を起こした井伊直弼の強硬路線を否定していました。
この穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうと考えたのが、いわゆる公武合体です。
1862年には、井伊直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に、亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させています。
安藤信正の公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁の実現でもありました。
長州藩士・長井雅楽の『航海遠略策』を承認したのも公武合体の一環であったと考えられています。
安藤信正のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「安藤信正」についてご紹介してきました。
今回は、「安藤信正とは何者か?坂下門外の変のきっかけになった公武合体とはどんなものだったのか」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
関連するおすすめ記事