戦国時代

千利休とは何者だったのか?現存する茶室や名言、最後の死因となった切腹の理由や本名とは?

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも文化的側面から歴史の表舞台に立った「千利休」についてご紹介していきます。

千利休の簡単な略歴は以下ですね

千利休のプロフィール

  • 1522年:誕生
  • 1569年:織田信長の茶堂として召抱えられる。
  • 1582年:本能寺の変のあと、豊臣秀吉に仕える。
  • 1585年:千利休と名乗り始める
  • 1591:死去(70歳)

この記事でわかる事としては、「千利休」の縁の物事、いわゆる「千利休」の周辺情報についてまとめています。

今回は、「千利休とは何者だったのか?現存する茶室や名言、最後の死因となった切腹の理由や本名とは?」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

千利休の現存する唯一の茶室「待庵」

引用:https://blog.goo.ne.jp/hirokikurioka/e/372209063ee5a1a34550fc770fbe7f29

豊臣秀吉(当時の羽柴秀吉)が山崎城築城に際して、堺から呼び寄せた千利休が、大山崎在住中に建てたといわれる小間の茶室と伝えられています。

その趣には、建物の端々に千利休の非凡さが感じられると言われていますね。

実際にその建物は切妻造りとなっており、茶室では例のない地下窓をあけているようです。

この「待庵」は、愛知県犬山市の如庵、京都市大徳寺の密庵、これらとともに国宝三茶室に数えられています。

お茶の世界というのは、なかなか独特の世界観・空気感が漂いますが、無と自然に帰る場所のように僕個人としては捉えていますね。

今井宗久の記事にも書きましたが、瞑想と少し似ている文化かもしれませんね。

戦国の世、天下泰平をまず体感するには、茶の心が先行していったのかもしれませんね。

ちなみに、流石の国宝ということもあり、貴重な建物でもあるために、中へ入手できるのが大学生以上の年齢の方に限るようですね。




千利休の名言について紹介

こちらでは、千利休の名言についてご紹介します。

千利休の名言①頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある

頭を下げて守れないものことが利休の美学に反することだったのかもしれません。

単に政治権力に屈することが嫌だったということか、今も謎を含んではいますね。

千利休の名言②上手にはすきと器用と功積むと この三つそろふ人ぞ能くしる

物事が上達するには数奇であること、器用であること、そして功を積むことの3つが必要である、ということですね。

何事においても、コツコツと努力を積み重ねることが大事ですね。

千利休の名言③家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり

家も食事も、最低限でいいということです。

いわゆる、足るを知るということでしょうか。

贅沢三昧な秀吉に対して言いたかったことかもしれませんね。

自然体であることが美しいという、これもまた美学でしょう。

千利休の名言④稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一

稽古においては簡単な事から入り、難しいことを全て習得し、そして最後にまた初めの簡単なことに戻って来ること。

数年経った時に、基本や基礎に立ち返るとまたさらに飛躍しますよね。

また、初心にも帰れるという利点もありますよね。

千利休の名言⑤その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ

何事も学ぼうと思う心が自分の指針であり、師匠であるということですね。

好奇心があれば自ら様々な事を知り、考え、そこから多くを学び取ることが出来ます。

自分の内なる声に傾け、絶対的な自分を大切に生きる、自分という自然のあり方を師とする考え方なのだと思います。

千利休の最後は切腹:その原因は?

千利休が秀吉の怒りを買ったために最後は切腹を命じられ、この世を去っていますね。

怒りを買った原因は、「大徳寺三門の改修にあたって、増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られています。

そんな事で切腹になるのか?という感じですが、その他にもいろんな説がWikipedia上にはありましたね。

  1. 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした疑い
  2. 二条天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った
  3. 秀吉と茶道に対する考え方で対立した
  4. 秀吉はもともとわび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てたころから利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、利休が信楽焼の茶碗を作っていることを聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、利休がまったく聞く耳を持たなかったため
  5. 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否したため
  6. 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれた説
  7. 秀吉の朝鮮出兵を批判した説
  8. 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果
  9. 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれた説
  10. 利休が修行していた南宗寺は徳川家康とつながりがあり、家康の間者として茶湯の中に毒を入れ、茶室で秀吉を暗殺しようとした説

いろんな説がありますが、皆さんはどれだと思いますか?




千利休の本名とはなんだったのか?

千利休の幼名は田中与四郎あるいは與四郎と言われています。

また、のち法名を得て宗易と称したり、抛筌斎(ほうせんさい)と称したりしていますね。

一般的に今もなお知られているこの「千利休」という名前は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号という風に伝えられています。

なお、千利休という名前の考案者については、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳などの面々が考案したのではないかと言われており、この辺りは諸説があるようです。

千利休のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「千利休」についてご紹介してきました。

今回は、「千利休とは何者だったのか?現存する茶室や名言、最後の死因となった切腹の理由や本名とは?」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。