どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、「斎藤実盛」についてご紹介していきます。
「斎藤実盛」の簡単な略歴は以下ですね
斎藤実盛のプロフィール
- 1111年:誕生
- 1183年:死去(73歳)
この記事でわかる事としては、「斎藤実盛」の縁の物事、いわゆる「斎藤実盛」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「斎藤実盛とは何者だったのか?かつて救い出した源義仲に最後の戦いを挑んだ老武将」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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斎藤実盛とは何者か?
こちらでは、「斎藤実盛」とはどのような人物だったのかについてご紹介して参ります。
斎藤実盛は、平安時代末期の武将ですね。
藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛の子として生まれています。
越前国の出で、長井別当と呼ばれました。
初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになっていきます。
危険視した義朝の子・源義平は、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻りますが、義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けるなどの貢献をしてます。
この駒王丸こそが後の源義仲です。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦します。
そして、義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されることになります。
義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に向けて出陣します。
平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによります。
再び維盛らと源義仲追討のため北陸に出陣し、加賀国の篠原の戦いで敗北を喫します。
味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られるのでした。
斎藤実盛のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「斎藤実盛」についてご紹介してきました。
今回は、「斎藤実盛とは何者だったのか?かつて救い出した源義仲に最後の戦いを挑んだ老武将」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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