どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、「谷干城」についてご紹介していきます。
谷干城の簡単な略歴は以下ですね
谷干城のプロフィール
- 1837年:誕生
- 1911年:死去(75歳)
この記事でわかる事としては、「谷干城」の縁の物事、いわゆる「谷干城」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「谷干城とは何者なのか?戊辰戦争や西南戦争など数々の戦場を経験した軍人」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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谷干城とは何者だったのか?
谷干城は土佐藩の武士ですね。
維新後は、陸軍軍人、政治家として活動しています。
坂本龍馬をとても尊敬していた
土佐藩の上士出身だった谷は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬したと言われていますね。
龍馬が暗殺されたときには(近江屋事件)、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだしています。
谷は中岡が「人をたくさん斬っている新選組の仕業だろう」「犯人は『コナクソ』と言った」と証言していますね。
谷はこの後、新選組と対立し、リーダー格の伊東甲子太郎らが殺害されたばかりの御陵衛士のメンバーと会談しています。
そして、現場に残されていた鞘が新選組隊士原田左之助のものであるという証言も得ていますね。
近藤勇の処刑を主張した
谷干城は、流山で捕らえた元新選組局長である近藤勇の処遇についても意見していましたね。
その際に薩摩藩の平田宗高と対立していました。
平田は一軍の将であるから一旦生かしたまま京都に送るよう述べたが、谷は浮浪の者の頭に過ぎないと斬首を主張したと言われています。
谷干城のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「谷干城」についてご紹介してきました。
今回は、「谷干城とは何者なのか?戊辰戦争や西南戦争など数々の戦場を経験した軍人」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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