どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、強い軍事力を持ちながらも、どっちつかずの態度を貫いた「鍋島直正」についてご紹介していきます。
鍋島直正の簡単な略歴は以下ですね
鍋島直正のプロフィール
- 1814年:誕生
- 1871年:死去(58歳)
この記事でわかる事としては、「」の縁の物事、いわゆる「」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「鍋島直正とは何者だったのか?大砲などの近代武器を製造した肥前藩主の秀逸な戦略に学ばされます」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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鍋島直正とは何者だったのか
こちらでは、鍋島直正についてご紹介して参ります。
鍋島直正は、江戸時代末期の大名ですね。
彼は、肥前国佐賀藩の10代藩主として活躍されています。
また、9代藩主・鍋島斉直の十七男です(当時は何人子供がいたんだろう???)。
正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)で、、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫です。
鍋島直正が貫いたどっちつかずの態度が秀逸
鍋島直正は、反射炉といって、金属を溶かす施設を建造しました。
こうして大砲を多く製造したと言われていますね。
また、特産品も多く生産して藩の財政を立て直していきました。
かなり政治的、ビジネス的な手腕の高い人物だったようですね。
また、ペリーが来航した時に、その「軍事力で脅す」やり方にとても反発したと言います。
ですが、その後は幕府にも朝廷にも、幕府を倒そうとする勢力にも味方をしませんでした。
これは、おそらく自分たちがペリーと同様の強力な軍事力を持つことができていたからに他なりません。
こうして「肥前の妖怪」と言わるようになるのですが、幕末の戊辰戦争が始まると新政府軍に加わり、新政府にも重要な役職を次々と任されていったようですね。
鍋島直正のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「鍋島直正」についてご紹介してきました。
今回は、「鍋島直正とは何者だったのか?大砲などの近代武器を製造した肥前藩主の秀逸な戦略に学ばされます」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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