どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、2代目内閣総理大臣となった「黒田清隆」についてご紹介していきます。
黒田清隆の簡単な略歴は以下ですね
黒田清隆のプロフィール
- 1840年:誕生
- 1900年:死去(61歳)
この記事でわかる事としては、「黒田清隆」の縁の物事、いわゆる「黒田清隆」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「黒田清隆とは何者だったのか?薩摩藩出身から箱館戦争で戦い2代目内閣総理大臣にのし上がった政治家」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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黒田清隆とは何者だったのか?
黒田清隆は、薩摩藩士の武士ですね。
陸軍軍人、政治家でもあります。
そして、実は2代目の内閣総理大臣にもなっています。
幕末には薩長同盟のため奔走していますね。
明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執ってきています。
その後、北海道の開拓を指揮してきていますね。
開拓使のトップを兼任しながら、政府首脳として東京を拠点として、1876年には日朝修好条規を締結しています。
1877年の西南戦争では熊本城の解囲の功績をあげています。
大久保利通が暗殺されると、大久保の後をついで、薩摩閥の重鎮として活動していっていますね。
1888年には、内閣総理大臣となっています。
在任中に大日本帝国憲法の発布後、いわゆる不平等条約の改正交渉に失敗してしまいます。
それが原因で本人は総理大臣を辞任しています。
黒田清隆と榎本武揚の関係
箱館戦争の時に、死を覚悟していた榎本武揚は、「万国海律全書」という大切にしていた本を戦火から守るために黒田清隆に送りつけました。
この榎本武揚の人柄に感動した黒田清隆は、戦争後に丸坊主となって「榎本の命を救ってほしい」と新政府高官に直訴したようです。
こちらの写真は丸坊主となった黒田清隆の写真が残っているものとなります(左)。
黒田清隆のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「黒田清隆」についてご紹介してきました。
今回は、「黒田清隆とは何者だったのか?薩摩藩出身から箱館戦争で戦い2代目内閣総理大臣にのし上がった政治家」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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