どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、最後まで新政府軍に抵抗した「松平定敬」についてご紹介していきます。
松平定敬の簡単な略歴は以下ですね
松平定敬のプロフィール
- 1846年:誕生
- 1908年:死去(63歳)
この記事でわかる事としては、「松平定敬」の縁の物事、いわゆる「松平定敬」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「松平定敬とは何者だったのか?松平容保や徳川慶喜との関係や西南戦争、晩年について紹介します」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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松平定敬とは何者だったのか
こちらでは、松平定敬についてご紹介して参ります。
松平定敬は、江戸時代後期の大名ですね。伊勢国桑名藩主でもありました。
兄に尾張藩主の徳川慶勝、一橋家当主の徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。
いわゆる「高須四兄弟」の末弟であった人物です。
松平定敬と兄の松平容保との関係
こちらでは、松平定敬と西南戦争についてご紹介して参ります。
1868年の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の一翼を担って戦います。
しかし、敗北していますね。
徳川慶喜によって兄・容保とともに無理やり大坂城から江戸に向かわされた定敬は、国許の桑名城が新政府軍を前に無血開城したため、飛び地の越後柏崎に移り、寺で謹慎しています。
会津藩の恭順嘆願が新政府軍に退けられ、兄・容保が徹底抗戦の意思を示します。
そして、定敬も恭順から抗戦に転じて、会津の兄を助けることを決意します。
これは恐らく、定敬も容保と同様、京都の治安維持に努力したにもかかわらず、朝敵にされた無念を強く感じていたかも知れませんね。
松平定敬と西南戦争
1873年、赦免された定敬はアメリカ人宣教師ブラウンに英語を学び、その英語塾を支援します。
その後、松平定敬はアメリカに渡っています。
1877年、西南戦争が起こると、定敬は旧家臣たちとともに、自ら出征して戦います。
従った旧桑名藩士は400人にものぼったといわれますね。
これによって桑名の名誉を回復し、戊辰戦争で戦死した家臣らに報いたいと思ったのかもしれません。
恐らく、松平定敬はこの機を待っていたかも知れませんね。
1894年、48歳の時に、兄・容保の跡を継いで日光東照宮宮司に就任して、2年間務めます。
松平定敬のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「松平定敬」についてご紹介してきました。
今回は、「松平定敬とは何者だったのか?松平容保や徳川慶喜との関係や西南戦争、晩年について紹介します」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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