戦国時代

宇喜多秀家とは何者だったのか?関ヶ原の戦い後の島流しで過ごした八丈島

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも最強と言われた「宇喜多秀家」についてご紹介していきます。

宇喜多秀家の簡単な略歴は以下ですね

宇喜多秀家のプロフィール

  • 1572年:誕生
  • 1600年:関ヶ原の戦い
  • 1655年:死去(84歳)

この記事でわかる事としては、「宇喜多秀家」の縁の物事、周辺情報についてまとめています。

今回は、「宇喜多秀家とは何者だったのか?関ヶ原の戦い後の島流しで過ごした八丈島」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

宇喜多秀家とは何者か?

宇喜多直家の晩生の子が宇喜多秀家ですね。

1581年には、父の病没により9歳で家督を相続するということになっています。

そして翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られます。

秀吉からは養子扱いの厚遇を受け、本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した人物でしたね。

1589年には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えています。

徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた武将です。

宇喜多秀家が過ごした八丈島

1600年に関ヶ原の戦いが起こります。

ここでは、豊臣家に忠義を尽くす石田三成と天下を狙う徳川家康との間でおきた「関ヶ原の戦い」で、秀家は西軍で最大の17,000の兵を率いて戦うのでした。

この西軍が優勢だと思われたこの戦いも、あの小早川秀秋の裏切りにより大敗してしまいます。

宇喜多秀家は、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びます。

そして、1603年、島津義弘の息子・忠恒によって家康に引き渡され、その後、久能山に幽閉されるのでした。

1606年には、八丈島へ島流しとなりました。




宇喜多秀家があった島流し

宇喜多秀家は、八丈島へ移って生活をしていましたね。

その時から苗字を「宇喜多」から「浮田」へと改めて暮らしていました。

このとき、宇喜多秀家の息子たちは共に八丈島へ島流しにあっています。

しかし、秀家の正室・豪姫が、兄・前田利長のいる金沢へと帰り、その際に秀家の子供の一人を連れていたとも言われ、その子は前田家のもとでかくまわれ、越中(現在の富山県)に逃れ「浮田」と名乗るようになったと伝わっています。

それから、1616 年、徳川家康が死去すると、宇喜多秀家は幕府から許されます。

ただ、それからも秀家は八丈島から出ることをせず、1655年、八丈島で、84歳で亡くなりました。

宇喜多秀家が首謀者とも言われる関ヶ原の戦い

本当の首謀者はこの宇喜多だったのではないかという説もありますね。

表向きの歴史では石田三成だと言われてはいますが、それほどまでに西軍に影響力をもたらした人物だったようですね。

宇喜多秀家のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「宇喜多秀家」についてご紹介してきました。

今回は、「宇喜多秀家とは何者だったのか?関ヶ原の戦い後の島流しで過ごした八丈島」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。