戦国時代

豊臣秀吉の家紋や城、妻や死因や天下統一までの出来事をまとめて紹介します!

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも最も成り上がった「豊臣秀吉」についてご紹介していきます。

豊臣秀吉の簡単な略歴は以下ですね。

豊臣秀吉のプロフィール

  • 1537年:誕生
  • 1554年:信長に仕える
  • 1582年:清須会議
  • 1590年:天下統一
  • 1598年:死去(61歳)

この記事でわかる事としては、「豊臣秀吉」の縁の物事、いわゆる「」の周辺情報についてまとめています。

今回は、「豊臣秀吉の家紋や城、妻や死因や天下統一までの出来事をまとめて紹介します!」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

豊臣秀吉の家紋を紹介!

ここでは、豊臣秀吉の家紋についてご紹介していきます。

藤吉郎時代「沢瀉」

可愛らしい花を咲かせる沢瀉、攻めにも守りにも通じるこの植物は、武将の道を進んでいく秀吉にとってぴったりの家紋ですね。

織田信長の部下時代「五三桐」

織田信長は、室町幕府最後の将軍で知られる第15代将軍・足利義昭から「五三桐(ごさんのきり)」を賜っています。

さらに遡ると足利尊氏は後醍醐天皇から「五三桐(ごさんのきり)」を賜っていますね。

後陽成天皇つながり「五七桐」

桐紋の中で最もランクの高い「五七桐(ごしちのきり)」の紋になりますね。

この紋は、後陽成天皇から豊臣姓と合わせて賜ったものです。

五三桐と五七桐、二つの桐紋を賜った秀吉は、より位の高い天皇から賜ったということで「五七桐(ごしちのきり)」をメインに使っていきます。

秀吉独自の「太閤桐」

天下統一をした後、トップである自らの家紋を与えることで、同族意識を高めようとしたと言われていますね。

また、ありがたい家紋が出回りすぎたことで、ありふれたものとなり価値が下がってしまうという心配が出てきたとも言われています。

そこで、「五七桐」に手を加え新たに「太閤桐(たいこうぎり)」を作り出したと言われてますね。




豊臣秀吉関連のお城を紹介

ここでは、豊臣秀吉関連のお城をご紹介していきます。

墨俣一夜城(すのまたいちやじょう):岐阜県大垣市

引用:https://tabi-mag.jp/gi0052/

織田信長が美濃を攻めるとき、前線基地としての役目を果たしたのが墨俣一夜城です。

この城は豊臣秀吉によって築かれました。

秀吉は戦国武将の蜂須賀小六や美濃に住む豪族たちと協力して、一夜にして城を完成させたといわれていますね。

加古川城(かこがわじょう):兵庫県加古川市

引用:https://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/e/768caff1eaa41f855ca4ea2f7a3244b7

織田信長より中国地方の平定を命じられた豊臣秀吉が、中国地方攻めに向けて軍儀の行なわれた場所が加古川城らしいですね。

矢や鉄砲を中から発射できるように施された城壁、高所から城周辺を見回すことのできる物見櫓、張り巡らされた堀が特徴だったようですね。

この防衛施設があれば、敵は容易に近づけなかったと言い伝えられています。

姫路城(ひめじじょう):兵庫県姫路市

引用:http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/hyogo/himejijyo/rekisi.html

姫路城は、豊臣秀吉とゆかりの深い城として知られています。

織田信長から中国地方の平定を命じられた豊臣秀吉が、中国地方を攻める際に拠点にしたのがこの城です。

ここから、秀吉の天下統一の道が始まったともいわれている城です。

大阪城(おおさかじょう):大阪府大阪市中央区

引用:https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/163/

織田信長没後に、織田家の権力争いに勝って不動の地位を築いた豊臣秀吉がその権威を示すために大阪城は築かれたと考えられています。

城の瓦や装飾などには金銀をふんだんに使い、その豪華絢爛さは来訪者を圧倒していますね。

大阪城は守りの要としての高い防衛力も備えており、「難攻不落の城」と呼ばれていたのです。

徳島城(とくしまじょう):徳島県徳島市

Wikipedia

徳島城は守りのしっかりとした城だったと言われています。

城の北側と南側には川があり、これが天然の堀となります。

「阿波の青石」という徳島名産の石材で築いた高石垣が、本丸を囲っていたようですね。

実は陰謀論か?豊臣秀吉の死因について

ここでは、秀吉の死因についても触れておきましょう。

この秀吉の死因についても、歴史研究家の中では色々と不可解な点もまだ多いようですね。

まず、秀吉の死が近づいていた頃というのは、秀吉には下痢や腹痛、食欲不振に加えて手足の痛みがあり、そして、失禁もあったそうです。

そして、亡くなったのが1598年の8月18日。

秀吉の病気が発病してから、わずか5ヶ月ちょっとの間に悪化してしまい、こうして秀吉は亡くなってしまいました。

この死因については、様々な説があります。

脳梅毒(梅毒性の脳膜炎)や大腸癌、疫痢(赤痢など)、尿毒症、脚気、腎虚などと原因があれこれ考えられています。

ちなみに、梅毒の可能性もありますよね、秀吉さん、色好みですから。

過多な性交渉に伴う病気というのもあったかもしれません。

なお、秀吉さんは女好きの性格というのが一般的にも知られている性格ですが、その子供を残すというのには、とても苦労をされた人でした。

だから、子供の問題もついて回っていた人ですよね。

秀吉の死因が梅毒という説も、あながち正しいのかもしれません。

ちなみに、梅毒で亡くなったとされている武将は結構多いですよ。

また、信憑性はともかく毒殺説もあります。明の使者で沈惟敬という人物が大坂城で秀吉に謁見しており、「燃藜室記述」という朝鮮の歴史書には、秀吉は彼に毒殺されたと記述されているそうです。

陰謀説は常につきまとっていた人なので、まだまだ多くの謎が残されているようです。

だから面白いんですけどね。




豊臣秀吉の天下統一

事実上の天下統一としては、以下の流れであると言われいていますね。

  1. 北条氏政が切腹(せっぷく)する。
  2. 奥州(おうしゅう)の伊達政宗が家臣になる。
  3. 奥州(おうしゅう 東北地方のこと)を平定する。
  4. 全国全国が統一される。

これだけが秀吉の天下統一の道筋ではありませんけど、天下統一した後の秀吉の方が、苦労も多かったのかもしれませんね。

また、家臣には、黒田官兵衛や真田幸村、加藤清正や徳川家康などが集結していますね。

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豊臣秀吉のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「豊臣秀吉」についてご紹介してきました。

今回は、「豊臣秀吉の家紋や城、妻や死因や天下統一までの出来事をまとめて紹介します!」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。