どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、まむしの異名を持つ「斎藤道三」についてご紹介していきます。
斎藤道三の簡単な略歴は以下ですね
斎藤道三のプロフィール
- 1494年:誕生
- 1504年:7歳で僧侶となる
- その後、行商人として成功し、後に武士となる
- 1548年:娘の帰蝶を信長に嫁がせる
- 1556年:死去(63歳)
この記事でわかる事としては、「」の縁の物事、いわゆる「」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「美濃のまむし斎藤道三の名言やまむしと呼ばれた理由、家紋やその最期について解説をしていきます!」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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斎藤道三がまむしと呼ばれた理由
もともとはお坊さん、そして商人、それから武士としてその身を変化させていった人物ですね。
それがまるで、「蛇の脱皮」のように例えられたため、まむしの異名がついたと言われています。
しかし道三自身は戦国武士道とはそういうものだと語っていたようです。
あらゆる経験を総動員した道三の采配ぶりは、時代の先を行く革新的なものであったとも評価されています。
時には油売りの経験は楽市楽座に活かし、僧籍の10年間に学んだ兵法からは、長槍戦法を編み出したともされています。
義理の息子にあたる織田信長はそんな道三からそうした知恵の多くを吸収したようですね。
斎藤道三も信長の将才・商才を見ぬき、「美濃はすべて織田信長に譲る」と遺言状に記し、1556年に63年の生涯を閉じたとされています。
斎藤道三の名言を紹介
こちらでは、斎藤道三の名言についてご紹介して参ります。
- 「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」
- 「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰」
- 「美濃国の大桑においては、終には織田上総助の存分にまかすべく、譲状、信長に対し遺はすその筈なり」
- 「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。『油がこぼれたら』お代は頂きません」
- 「身を捨てて、この世の他に生きる世なし。いづくか終(つい)の住処(すみか)なりけぬ」
先見の明に長けた人物であったと、どの文献でも評価されている斎藤道三ですね。
斎藤道三の最期とは
斎藤道三の息子・義龍は長井道利と共謀し、稲葉山城におびきだした自分の弟たちを酒に酔わせて殺害します。
この悪行に驚いた斎藤道三。
その後道三は大桑城に落ち延びます。
その翌年には長良川で長男の義龍と対峙します。
しかし、このときの道三には味方が少なく、義龍はその勢力に支えられて父である斎藤道三を討ち取ります。
こうして斎藤道三はこの世を去ったと言われていますね。
義龍軍1万7500人に対し道三軍は2700人余りだったといいます。
道三に味方した勢力には明智光秀もいました。
しかし、義龍は別動隊を率いて斎藤道三を攻め滅ぼしています。
斎藤道三の家紋
斎藤道三が使用していた家紋は、「二頭波紋」という家紋です。
波をデザインした家紋で、道三は自分が城主になったときにこの家紋に変えています。
波の紋は力強さの表れといわれ、武家で多く使用されてきた経緯があり、道三はそのようなところからこの家紋を使うようになったと考えられています。
斎藤道三のおすすめ本
こちらでは、斎藤道三について書かれたおすすめ本をご紹介して参ります。
国盗り物語
このサイトでも何度も紹介している国盗り物語ですね。
京の油商奈良屋の莫大な身代の乗っ取り、精力的かつ緻密な踏査によって美濃ノ国を“国盗り”の拠点と定めた斎藤道三。
彼が一介の浪人という身分からいかに成り上がったのか、若き日の策謀と活躍を、独自の史観と人間洞察によって描いた司馬遼太郎の独特の壮大な歴史物語です。。
天を食む者 (岩井三四二)
苦難の果てに斎藤道三は美濃一の人物として成長する。
織田軍を相手にも、道三はあらゆる権謀術数を駆使して立ち向かう。
嫡子である利尚に跡目を継がせようとするが、実権を手放さず鬼神と化した道三の裏腹を描いた作品です。
斎藤道三のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「斎藤道三」についてご紹介してきました。
今回は、「美濃のまむし斎藤道三の名言やまむしと呼ばれた理由、家紋やその最期について解説をしていきます!」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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