明治維新

井上馨とはどんな人だったのか?渋沢栄一との関係や政策、鹿鳴館について解説をします

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも明治時代の外交の立役者出会った「井上馨」についてご紹介していきます。

井上馨の簡単な略歴は以下ですね

井上馨のプロフィール

  • 1836年:誕生
  • 1915年:死去(79歳)

この記事でわかる事としては、「井上馨」の縁の物事、周辺情報についてまとめています。

今回は、「井上馨とはどんな人だったのか?渋沢栄一との関係や政策、鹿鳴館について解説をします」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

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井上馨とはどんな人だったのか?

こちらでは、井上馨とはどんな人物だったのかについてご紹介して参ります。

井上馨は、政治家・公爵ですね。

元々は山口県生、つまり長州藩の人ですね。

蘭学や砲術を学んで、伊藤博文らと一緒に当時からイギリスに留学してます。

帰国後は桂小五郎(木戸孝允)らと薩長連合に奔走しています。

維新後は新政府参与となり外交・財政の衝に当り、のち伊藤内閣の外相・内相・蔵相を務めた。

井上馨と渋沢栄一の関係や政策

井上馨は、渋沢栄一の直属の上司となったようです。

この、渋沢栄一が大隈重信の強い説得により大蔵省の官僚になってます。

そして、実務のトップを務めていたのが井上馨です。

そして、井上馨は財貨の有効運用の才能が突出していたと言われており、渋沢栄一は、井上馨の右腕として活躍。度量衡や租税制度の改正、貨幣・禄制の改革、鉄道敷設など、次々と重要案件を手掛け、スピード出世していきます。

井上馨の鹿鳴館とは

引用:Wikipedia

1883年に日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館です。

(元々は、薩摩藩邸だったんでしたっけ?)

国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用されています。

鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ばれていますね。




井上馨のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「井上馨」についてご紹介してきました。

今回は、「井上馨とはどんな人だったのか?渋沢栄一との関係や政策、鹿鳴館について解説をします」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。

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