戦国時代

竹中半兵衛とはどのような人だったか?家紋や黒田官兵衛との繋がりについて紹介

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも軍略に長けたな「竹中半兵衛」についてご紹介していきます。

竹中半兵衛の簡単な略歴は以下ですね

竹中半兵衛のプロフィール

  • 1544年:誕生
  • 1579年:死去(36歳)

この記事でわかる事としては、「竹中半兵衛」の周辺情報についてまとめています。

今回は、「竹中半兵衛とはどのような人だったか?家紋や黒田官兵衛との繋がりについて紹介」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

竹中半兵衛とはどのような人物か

竹中半兵衛は、初名は重虎、のちに重治と名乗ります。

ですが、通称は半兵衛(はんべえ)として調べています。

豊臣秀吉の参謀として活躍し、その後、黒田官兵衛とともに「両兵衛」「二兵衛」と称されるほど有名になってきました。

しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物でもあります。




竹中半兵衛の家紋

こちらでは、竹中半兵衛の家紋をご紹介していきます。

竹中半兵衛の家紋:九枚笹

竹中半兵衛_家紋①引用:http://kisetsumimiyori.com/takenaahanbe/

こちらは少し有名な家紋ですね。

「竹」と「笹」で構成されている家紋ですね。

「猛々しい」という意味もあります。

竹中半兵衛の家紋:黒餅

竹中半兵衛の家紋②引用:http://kisetsumimiyori.com/takenaahanbe/

もう一つが「黒餅」という家紋ですね。

実は所縁のあった黒田官兵衛から譲り受けた家紋だと言い伝えられています。

竹中半兵衛の死因とは

竹中半兵衛は、後に天下を治める豊臣秀吉に仕え、その知略と腕前を遺憾無く発揮しました。

そんな竹中半兵衛は1579年に戦の最中に病に倒れてしまいます。

その2か月後に、再び戦場へ出て病没します。

死因は、肺結核だとされています。

後の時代では、新撰組の沖田総士、長州藩士の高杉晋作も肺結核を患い、若くしてこの世を去られていましたね。

「戦場で死ぬことこそ武士の本望」と考えていた竹中半兵衛は、最後まで戦場に立ち続け、36年という生涯に幕を閉じました。




竹中半兵衛と黒田官兵衛

竹中半兵衛と黒田官兵衛は、「両兵衛」という呼称で秀吉の軍師として名を馳せていますね。

しかし、実は同じ戦で活躍したことは、記録上は1度しかないようです。

共に秀吉の軍の名軍師として活躍したにも関わらず、2人がお互いの知力を存分に一緒に発揮下敷きというのは本当にごく一瞬でした。

ただし、黒田官兵衛の息子を竹中半兵衛が匿ったおかげで黒田家は徳川時代の古きに渡る名士を作ってきたことが可能となりました。

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竹中半兵衛のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「竹中半兵衛」についてご紹介してきました。

今回は、「竹中半兵衛とはどのような人だったか?家紋や黒田官兵衛との繋がりについて紹介」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。