戦国時代

豊臣秀頼の生涯とは?略歴や遺体の場所や母親の淀殿について解説【豊臣家最後の当主】

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも悲運な生涯を送った「豊臣秀頼」についてご紹介していきます。

豊臣秀頼の簡単な略歴は以下ですね

豊臣秀頼のプロフィール

  • 1593年:誕生
  • 1595年:豊臣秀次が自刃
  • 1600年:関ケ原の戦い
  • 1603年:徳川秀忠の娘の千姫と結婚
  • 1611年:徳川家康との接見
  • 1614年:大坂の陣(大坂冬の陣)勃発
  • 1615年:大阪夏の陣にて死去(23歳)

この記事でわかる事としては、「豊臣秀頼」の縁の物事、いわゆる「豊臣秀頼」の周辺情報についてまとめています。

今回は、「豊臣秀頼の生涯とは?略歴や遺体の場所や母親の淀殿について解説【豊臣家最後の当主】」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

豊臣秀頼の生涯とは?最後の豊臣家当主

ここから、豊臣秀頼の生涯がどのようなものだったかを簡単にご紹介して参ります。

改めて解説すると、豊臣秀頼は豊臣秀吉の第2子として生まれてきました。

その母親となるのは淀君(茶々)ですね。

生まれた時の幼名は拾丸という名前だったようですね。

その後、秀吉が亡くなった後、また、豊臣秀頼の教育担当となった前田利家の死後に、徳川家康が権勢を振るいはじめます。

そして、石田三成との関ヶ原の戦い(1600年)後、摂津・河内・和泉の60万余万石の一大名と豊臣秀頼はされてしまいます。

1603年、内大臣となった豊臣秀頼は、徳川秀忠の長女である、、v千姫との政略結婚をすることになります。

ですが、1614年、京都方広寺の鐘銘問題をきっかけに、蟠りのあった徳川家との合戦(大坂冬の陣)が始まるのでした。

翌年の1615年、再び大坂夏の陣でいよいよ豊臣秀頼が敗れ、大阪城天守閣炎上の際、母親である淀君と共に自害して亡くなるのでした。

また、豊臣秀頼の嫡子であった嫡男も、徳川家に捕らえられ、わずか8歳で六条河原で斬殺されます。

これによって豊臣氏は完膚なきまでに滅亡したのでした。




豊臣秀頼の遺体か?

大坂の陣からおよそ350年後の1980年。

大坂城三ノ丸跡の発掘調査で、3名の頭蓋骨と馬1頭の頭の骨が発見されました。

骨は人為的に埋葬されたものとみられ、きっと死者に対して誰かが埋めたのでしょう。

3つの頭蓋骨のうちのひとつは20代男性のものと判明しました。

顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から豊臣秀頼のものではないかと推測されていましたね。

実のところは証明は何も成されておりません。

但し、その後、遺骨は昭和58年(1983年)、に京都の清凉寺に埋葬されております。

豊臣秀頼の母はあの淀殿(茶々)

ここでは、豊臣秀頼の母親について述べていきます。

豊臣秀頼の母親は、あの淀殿ですね。

豊臣秀吉の側室となった淀殿(茶々)が、年老いた秀吉との間に授かった実の跡取り息子としてこの世に誕生します。

豊臣家の正式な跡取りを産んだ後の淀殿(茶々)は、その後大いに自分の権威を誇示したことでしょうね。




豊臣秀頼のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「豊臣秀頼」についてご紹介してきました。

今回は、「豊臣秀頼の生涯とは?略歴や遺体の場所や母親の淀殿について解説【豊臣家最後の当主】」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。