どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、歴史上の人物でも○○な「今井宗久」についてご紹介していきます。
今井宗久の簡単な略歴は以下ですね
今井宗久のプロフィール
- 1520年:誕生
- 1568年:織田信長より、さまざまな特権を得る
- 1578年:本能寺の変
- 1591年:千利休切腹
- 1593年:死去(73歳)
この記事でわかる事としては、「今井宗久」の縁の物事、いわゆる「今井宗久」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「今井宗久とは何者か?織田信長や千利休、明智光秀との関係について解説」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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今井宗久とは何者か?
ここでは、今井宗久の簡単な紹介をして参ります。
今井宗久は織田信長からの信頼が高かった人物
今井宗久は、戦国時代の堺の商人であり、茶人として有名だった人ですね。
千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた人物です。
織田信長の堺に対する経済対策にかなり協力的に動き、堺の商人の仲介などを手助けしたと記録されていますね。
信長からの厚い信頼を獲得していたようです。
信長亡き後は、豊臣秀吉にも仕えたようです。
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今井宗久の子孫は誰?
今井宗久の子孫という形では情報なあまり出てきませんでしたね。
ただ、今井宗久の子どもである今井宗薫もまた、父と同じ茶人であったと残っています。
ただ、豊臣家と茶人との関係は千利休のこともあり、やはり嫌われていた様子ですね。
豊臣からの当たりも強かったのではないでしょうか。
そんな中で、対立軸にいた徳川家康が今井宗薫を庇護したとも伝えられています。
確かに、茶という大きな文化の礎を築いた人たちが弾圧されるのは忍びないですよね。
今の茶道が残っているのも、こういった庇護があったからかも知れませんね。
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今井宗久と千利休
今井宗久と千利休との関係についてこちらでは解説をしていきます。
今井宗久は津田宗及や千利休と一緒に織田信長の茶頭となったことで知られるようになりました。
この時、信長に対して千利休を推薦したのが今井宗久だったようです。
ただ、今井宗久としては、常時奉仕をしたわけでも無かったようですね。
本能寺の変後は、信長の後を継いだ豊臣秀吉に仕えました。
しかし本願寺と密接な関係をもっていたことに加えて、今井宗久自身がそこまで茶の湯に思い入れがなかったことから、秀吉から遠ざけられていったようです。
むしろ、千利休は茶道を中心とした政治などを秀吉に提言したりしたことで、切腹に追いやられてしまっていますね。
同じ茶道の中にいても、違った命運を辿った2人だったかと思われます。
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今井宗久と明智光秀
今井宗久と明智光秀も交流があったと残されていますね。
明智光秀もいつしかお茶を親しみはじめていきました。
また、織田信長の命令で堺へ武器調達へいった際に、茶人のグループとの交流を深めていったのがきっかけと考えられていますね。
そこに、今井宗久や津田宗及がいたようです。
明智光秀は堺滞在時にこうしたグループと付き合いを深めていったので、茶の湯に影響されたと考えられています。
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今井宗久のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「今井宗久」についてご紹介してきました。
こうしてみてみると、茶の湯って現代のマインドフルネスに少し似ているかも知れませんね。
心を落ち着かせる、足るを知る精神など、人間の内側と向き合うようなことが流行りはじめていたのかも知れませんね。
戦国という生きるか死ぬかという心が騒つく時代に、それを沈める心のあり方を模索した時代だったのでしょうか。
今回は、「今井宗久とは何者か?織田信長や千利休、明智光秀との関係について解説」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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