どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、歴史上の人物で四国統一を果たした「長宗我部元親」についてご紹介していきます。
長宗我部元親の簡単な略歴は以下ですね
長宗我部元親のプロフィール
- 1539年:誕生
- 1599年:死去(61歳)
この記事でわかる事としては、「長宗我部元親」の縁の物事、いわゆる「」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「長宗我部元親とはどんな人物だったのか?四国統一を果たした武将と一族の最後」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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長宗我部元親とは何者?どんな人物だったのか
長宗我部元親は、1539年に「長宗我部国親」(ちょうそかべくにちか)の嫡男として誕生した戦国武将ですね。
長宗我部氏は、戦国時代の土佐で勢力を伸ばした「土佐七雄」と呼ばれる有力豪族のひとつでした。
ちなみに、この土佐七雄とは、(長宗我部氏、一条氏、津野氏、本山氏、安芸氏、大平氏、吉良氏、香宗我部氏)の7つの家のことを示しています。
長宗我部元親が生まれる前の1508年、祖父長宗我部兼序(ちょうそかべかねつぐ)の代に襲撃を受けて「岡豊城」(おこうじょう)を追われ、長宗我部氏は衰退してしまいます。
そんな長宗我部氏を再び大きな勢力に盛り返したのが、長宗我部元親の父であった長宗我部国親でした。
(長宗我部家の代々の名前、読みにくい・・・慣れるまで苦労しますね)
長宗我部元親の祖父が岡豊城を追われた10年後、土佐の国司だった一条房家の助力で長宗我部国親が城主に復帰します。
1長宗我部元親が誕生したのは、長宗我部氏が生き残りをかけて盛り返しを見せた時代だったということでしょう。
長宗我部元親と明智光秀との関係は
長宗我部元親は、四国を統一した人物としてよく知られています。
土佐統一後は織田信長から四国での勢力拡大を容認されていました。
しかし、織田信長が長宗我部元親との同盟を反故にし、「三好康長」(みよしやすなが)と同盟を結んで四国征伐を決定したことがあります。
窮地に陥った長宗我部元親だったのですが、これを結果的に救ったのが、あの本能寺の変だったという訳です。
明智光秀により討たれたことで、長宗我部氏存続の危機を切り抜けたのです。
本能寺の変に関しては、明智光秀が謀反をした理由のひとつとして、長宗我部元親がかかわっていたのではないかという説もあります。
長宗我部元親の晩年と長宗我部家の破滅
長宗我部元親は、最愛の息子だった長宗我部信親の死によって、命運が大きく変わっていきます。
長宗我部元親は次男香川親和(かがわちかかず)、3男の津野親忠(つのちかただ)が存命であるにもかかわらず、溺愛していた4男の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)に家督を相続するように強行的に出ます。
そして、反対する者は、例え一族であっても粛清していきました。
このあまりにも非道な行ないがのちの長宗我部氏の滅亡に繋がったとも言われています。
長宗我部元親自身は、1593年に死去。享年61歳。
次男の香川親和は、悲嘆の中で病死。
3男の津野親忠は、長宗我部盛親に殺害されます。
長宗我部盛親は、「関ヶ原の戦い」でなんと石田三成派の西軍に与して「徳川家康」と敵対します。
その結果、大名から浪人へ転落し、再び大名に返り咲こうと豊臣方に味方して「大坂冬の陣・夏の陣」に臨みますが、敗北。
その後、長宗我部盛親は5人の息子もろとも斬首されて、長宗我部氏は滅亡します。
長宗我部元親のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「長宗我部元親」についてご紹介してきました。
今回は、「長宗我部元親とはどんな人物だったのか?四国統一を果たした武将と一族の最後」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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