戦国時代

北条氏康とは何をした人物か?逸話や名言についても紹介【常に第三の道を探したピンチをチャンスに変える武将】

どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。

今回は、歴史上の人物でも逆転劇の似合う武将、「北条氏康」についてご紹介していきます。

北条氏康の簡単な略歴は以下ですね

北条氏康のプロフィール

  • 1515年:誕生
  • 1538年:足利義明を打ち取り下総に進出
  • 1554年:今川義元、武田信玄と三国同盟
  • 1560年:小田原城の戦い
  • 1563年:第二次国府台合戦
  • 1569年:三増峠の戦い
  • 1571年:死去(57歳)

この記事でわかる事としては、「北条氏康」の縁の物事、いわゆる「北条氏康」の周辺情報についてまとめています。

今回は、「北条氏康とは何をした人物か?逸話や名言についても紹介【常に第三の道を探したピンチをチャンスに変える武将】」と題してご紹介して参ります。

ぜひ、勉強に役立てて下さいね。

それではさっそく見ていきましょう!

北条氏康とは何をした人か

ここでは、北条氏康という人物についてご紹介して参ります。

北条氏の三代目当主となった武将ですね。

あの北条早雲の孫に当たります。

戦の功績としては、河越夜戦において、扇谷上杉家を滅ぼしたという戦歴を残しています。

また、武田信玄、今川義元と三国同盟を結んで上杉家の進軍を防いだことでも有名ですね。

そのために、今川家に自分の娘を嫁がせるなどの征略結婚なども企ててきています。

同盟については、武田側が北条氏を攻めたことによって解消されていますね。

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北条氏康の逸話:河越夜戦

北条氏康の逸話の中で有名なのが河越夜戦ですね。

北条氏康は、西の今川義元、東の山内・扇谷上杉連合軍に挟撃され、滅亡の危機に立たされたことがありました。

しかし、領地を今川義元に割譲することで今川と和議を結び危機を回避します。

そして、北条氏康は東の山内・扇谷上杉連合軍に全力を傾けます。

しかし、山内・扇谷上杉連合軍は総勢8万5千。

対する北条氏康の兵は1万1千。

そんなに危機的状況は変わりませんでした。

そこで、北条氏康はわざと下手に出て和議を持ちかけようとしたり。戦わずに撤退するなど、とにかく上杉方を油断に誘います。

続けること半年、大軍を誇る上杉軍の士気は落ち、完全に油断した状態となりました。

存亡かけた北条軍は夜襲をかけ、8万5千の軍勢を1万1千の兵で打ち勝つことができたのです。

この河越夜戦は、後に厳島合戦、桶狭間の戦いと並ぶ、「日本三大奇襲」と呼ばれるようになります。

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北条氏康の名言:小事をおろそかにするな

小事をおろそかにするな

これが現代でも最も有名な北条氏康の名言ですね。

甲斐の武田、越後の上杉、今川など方々に囲まれていた北条氏康だからこそ、どんな些細なことでも見逃さない精神で家を守っていたことでしょう。

どんな時でもチャンスの糸口を見つけ出し、ピンチを最大のチャンスに変えてきたのだと思います。

この姿勢は非常に学ばなければいけない姿勢ですね。

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北条氏康のまとめ

如何でしたでしょうか?

以上、「北条氏康」についてご紹介してきました。

とにかく、第三の道を作り出そうとしたり、些細なことからチャンスを作ったり、奇策を成功させるなどの名将の1人だと思います。

あまりヒーローとして取り上げられることも少ないですが、よくよく学び進めるとカッコ良さがわかる武将ですね。

今回は、「北条氏康とは何をした人物か?逸話や名言についても紹介【常に第三の道を探したピンチをチャンスに変える武将】」と題してご紹介致しました。

ぜひチェックしてみて下さい。

それでは、今回はこの辺で。