どもども、武将好き歴史ファンのジョーです。
今回は、歴史上の人物でもダークヒーローっぽい「蒲生氏郷」についてご紹介していきます。
蒲生氏郷の簡単な略歴は以下ですね
蒲生氏郷のプロフィール
- 1556年:誕生
- 1568年:織田信長の人質(家臣)となる
- 1582年:本能寺の変
- 1585年:キリシタンとなる
- 1590年:陸奥国会津へ移封
- 1594年:病気により死去(40歳)
この記事でわかる事としては、「蒲生氏郷」の縁の物事、いわゆる「蒲生氏郷」の周辺情報についてまとめています。
今回は、「蒲生氏郷とは何者か?有名な兜や名言・死因について紹介【信長が認めた家臣思いのダークヒーロー】」と題してご紹介して参ります。
ぜひ、勉強に役立てて下さいね。
それではさっそく見ていきましょう!
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蒲生氏郷とは何者か?
蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男。初名は賦秀または教秀。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン。子に蒲生秀行。
蒲生氏郷の兜が有名
蒲生氏郷の兜の奇抜な形には驚きます。因みに、兜の名前は「鯰尾兜」と言います。
蒲生氏郷の死因は?
病死。
とても悲しいですね。
蒲生氏郷が残した名言
ここでは、蒲生氏郷が残した名言をいくつかご紹介しておきます。
【たとえ、大領であっても、奥羽のような田舎であっては本望を遂げる事はできぬ。小身であっても都に近ければこそ天下をうかがえることができるのだ。】
【春夏秋冬どれか一つにかたよらず、家風を正すことが主将の器というべきであろう。】
【指揮者・武将だからといって後方ににいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば、家臣はついて来るものだ。】
【家来に対しては、知行と情の2つが必要。この2つが家来をやる気にさせる両輪ある。】
蒲生氏郷が立てなかった関ヶ原
織田信長が認めたほどの人物だった。
もしかしたら徳川家康との天下争いに参画できたほどの人物だったかもしれません。
しかし、若くして、そして1600年を迎える前にこの世を去っていますね。
とても貴重な逸材だったのですが、人の命とはわからないものですね。
蒲生氏郷のまとめ
如何でしたでしょうか?
以上、「蒲生氏郷」についてご紹介してきました。
今回は、「蒲生氏郷とは何者か?有名な兜や名言・死因について紹介【信長が認めた家臣思いのダークヒーロー】」と題してご紹介致しました。
ぜひチェックしてみて下さい。
それでは、今回はこの辺で。
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